「よこしまな特許事務所」は、特許を中心とする知的財産について、できるだけ平たい言葉でご紹介することを目的にします。
所長の横島は、昔からへそ曲がりなために友人からは「邪(よこしま)」と呼ばれますが、エンジニアとしてはむしろ褒め言葉と感じていました。
「よこしまな特許事務所」では、ちょっと「邪」な視点も絡めて楽しい読み物になるようにがんばります。
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2018年6月29日に、実質的に、伊藤園が保有していたトマトジュースに関する特許を無効とする旨の判決が確定しました。
見ようによっては、数ある「審決取消訴訟」についての判決が確定しただけなのですが、その内容が特許屋として非常に興味深いので、以下、ちょっとだけ邪(よこしま)な目から見える風景をご紹介します。
事件の概要は、ごく簡単には以下のとおりです。
伊藤園が持っている「糖度が9.4~10.0であり,糖酸比が19.0~30.0であり,グルタミン酸及びアスパラギン酸の含有量の合計が,0.36~0.42重量%であることを特徴とする,トマト含有飲料。」という発明についての特許に関して、カゴメが「これは特許されるべきでないから無効にすべきだ」と主張し、その主張を裁判所が認めました。
そして、この「この特許は無効にされるべきもの」と裁判所が判断した、その理由が興味深いのです。
食品関係の特許では、発明の効果を確認する手段として「官能試験」がよく用いられます。要は、何人かの被験者に実際に発明した物を食べて貰って、「美味しい」等と評価された結果を裏付けとして、一定の効果(=美味しい)を生じる発明であるとして特許出願をするのです。
私のように、主に工業製品に関する発明を扱う者としては、実は、「官能試験」の結果を発明の効果の裏付けとすることにはちょっと抵抗感があります。これは、「官能試験」が被験者の主観を基準にする以上、「被験者の選び方によって評価が変わる」、「結果に客観性がない」と感じるためです。一方、仮にそのような私の考え方を徹底すると、「美味しい」ことを目指してなされた発明の評価は困難になって、そのような発明は特許が取れないという結果になり、それはそれで困ったことなります。
このため、私の理解としては、絶対的な「客観性」等には目を瞑って、『「官能試験」の結果を以って、発明の効果の裏付けとしてもよいであろう』と理解すべきと考えています。その考えの裏側には、「他に美味しさを計る方法がない」、「所詮、万人が美味しいと思う食品はない」等との考えがあります。
そして、上記の伊藤園の発明も、そのような「官能試験」の結果によって裏付けられた発明でした。
伊藤園の発明の経緯を少し詳しく説明すると、「濃厚な味わいでフルーツトマトのような甘みがあり且つトマトの酸味が抑制された,新規なトマト含有飲料」とすることを目的にして、「糖度」、「糖酸比」、「グルタミン酸及びアスパラギン酸の含有量」の3つをパラメータとして、これらを様々に変えたトマトジュースを作り、このジュースを「酸味」、「甘み」、「濃厚(さ)」の観点で12人の被験者(パネラー)に評価して貰った結果、その3つのパラメータがそれぞれ上記の範囲にある時に良い評価が得られた…という知見に基づく発明でした(詳しくは、特許第5189667号公報を参照して下さい)。
上記のような伊藤園の特許を、裁判所が「この特許は無効にされるべき」と判断したのですが、その具体的な理由は以下のようなものです(平成28年(行ケ)第10147号)。
・濃厚な味わいでフルーツトマトのような甘みがありかつトマトの酸味が抑制されたとの風味を得るために,糖度,糖酸比及びグルタミン酸等含有量の範囲を特定すれば足り,他の成分及び物性の特定は要しないことを,当業者が理解できるとはいえず…
・「甘み」,「酸味」及び「濃厚」の各風味が本件発明の課題を解決するために奏功する程度を等しくとらえて,各風味についての全パネラーの評点の平均を単純に足し合わせて総合評価する…風味を評価する際の方法が合理的であったと当業者が推認することもできない
つまり、具体的な理由は、①「評価した3成分だけでは、トマトジュースの風味は定まらない」、②「官能試験における評価方法に合理性が無い」との2点のようです。
この判断内容はシンプル且つ合理的であり、私にも直感的に腑に落ちる内容です。一方、仮に同様な発明の出願書類を書く立場になった際には、私はどうしたら良いかが難しくなります。
というのは、上記①の理由に関連して、当然に風味に関連する全ての要素(成分及び物性)に関してのデータがあれば良いですが、特に食品などについては現実的ではない気がします。また、全ての関連する要素についての好ましい範囲を明示することは、実は世界一の美味しさを達成することと等しいものであって、「完全ではないけど、少なくてもコレをこの範囲にすると今までよりも美味しい」という発明は認められないことになりかねません。
また、上記②の理由に関連して、完全に客観性のある官能試験は事実上不可能とも感じます。
実は、お預かりした発明を守る弁理士である以上、上記①,②を回避する論法はあれこれ考えるのですが、それにしても今回の判決は特に食品分野の発明にとって難しい問題を提起したと感じます。
私は、世の中は複雑であって、むしろ明確な白黒を付けない方が世の中の幸せに繋がる事項も多々あるように感じています。一方、私の知る範囲でも、特許について無用な白黒を求めてしまったと感じる争いがいくつかあります。
今回の争いをすべき本当の理由が何処にあったのかは知りませんが、また一つパンドラの箱が開いた気がします。そして、裁判の勝者であるカゴメさんが保有する特許にも、今回の判決で存立が危うくなるものがあるようにも感じます。
そもそも特許権とは何でしょうか?
法律には、「特許権者は、業として特許発明の実施をする権利を専有する。」と書いてありますから、特許権が「特許発明の実施を独占する権限」であることは間違いがありません。そして、この定義は世界中で共通していると思います(特定の事項について、こんなにも国際的に定義が一致している事例は、実は珍しいと思います!)。
今回は、上記の特許権を「特許発明の実施を独占する権限」と定義付けていることが、実は奥深くて悩ましくもあるというお話をさせて頂きます。但し、例によって邪(よこしま)な物の見方であるので、あくまでご参考に留めて下さい。
以下は、私の個人的な考えですが、特許権を取得する者が原始的に願うのは「特許発明を利用して利益を獲得すること」であって、特許権の内容が「特許発明の実施を独占する権限」とされる必然性は無いと思います。しかし、特許制度が作られた頃には産業の形態が単純だったために、特許権者自身が特許発明を独占的に実施して利益を得る形態が自然であり、これを反映して(実は便宜的に?)特許権の内容を「特許発明の実施を独占する権限」と定義したのではないかと思います。
一方、現代において特許の活用形態は様々に変化しています。例えば、クロスライセンス、パテントプール、標準化技術に係る特許等の言葉は、いずれも他人が自己の特許発明を実施することを認める(ライセンス供与)一方で、自らも他人の特許発明を実施して収益したり、あるいはライセンス料収入等を得ようとする際の形態を意味するものです。これらの特許の活用形態は技術(社会)の高度化・複雑化によって、業界等によっては自己の特許発明のみでは製品を製造できないという事情が企業間相互に存在することを反映したものです。
そして、このような特許の活用形態では、特許権の独占性を「ライセンス」という行為によって自ら部分的に否定しているのであって、既に「特許発明の実施を独占する権限」とされる特許権の属性からの解離を生じているように思います。そして、特許の活用によって生じる利益の種類も、発明の実施による直接的な利益だけでなく、「特定の業界内で自らが事業を行う地位の確保」や「特定の業界の規模拡大への貢献」といった独占的な実施では得られにくい間接的な利益へと変化しているように感じます。
また、最近は更に別の形態での特許(知的財産)制度の活用も現れつつあります。例えば、特許でなくて商標についての話ですが、平昌オリンピックで女子カーリングチームが話題にした「そだねー」の語について、北海道の菓子メーカーが商標登録出願して議論になりました。
この時に、この菓子メーカーは「独占するつもりはない」、「申請により自由に使えるようにしたい」等のコメントを発表したそうですが、それにも関わらず
“独占権である商標権” の取得のための出願を行ったことを非難する発言が多くありました(なお、その後に、更に別の方が先に同様の出願をしていたことが明らかになって、この議論は立ち消えになったようです)。
以下は私の理解ですが、この菓子メーカーの行為から生じる利益は、商標権制度を活用した『社会的価値の保全』にあるように感じています。
例えば、“公園” は誰もが自由に出入りして活用できる場所ですが、特定の誰かがこの “自由” の名の下に公園を占拠した場合、公園としての価値は失われます。このため、このような占拠は排除されて公園の価値が保全されるべきであり、多くは公権によってこれが行われます。一方、女子カーリングチームの活躍によって「そだねー」の語が獲得した価値を特定の誰かが不当に独占(占拠)した場合、これを公権によって排除することはできません。この状況に対して、上記菓子メーカーは私権である商標権を活用して「そだねー」の語の価値を保全しようとされた、と私は理解しています。
つまり、商標権の内容は特許権等と同様に独占権であることに間違いないのですが、(上記菓子メーカーのコメントが真意だとすれば)そこに「独占の意図」がない以上、菓子メーカーは『社会的価値の保全』を行う負担を自ら買って出られたと理解できると思います。そして、そこからは『独占権の活用目的は、独占に限られない』という不思議な命題が見えてきます。
なお、「そだねー」の語が獲得した価値は、“忘却”という経路によっても失われます。放っておいたら無くなってしますものです(皆さんも、既に忘れられているのではないでしょうか?)。これに対して、
上記菓子メーカー等の行為は、 “機敏さと話題作り” の点でも『社会的価値の保全』としての有益性を含むように感じます。
一方、私はこれまで(これからも)主に「大学の特許」を手掛けてきましたが、実は、「大学の特許」の本質は上記「そだねー」事件と同質であると考えています。
iPS細胞を開発された山中伸弥先生は、新聞記事で、『どんな発明も特許が確保できなければ実用化は極めて困難になる。』、『特許というと企業が技術を独占するために使うという印象が強いが、CiRAでは「iPS細胞の作製技術を特定の企業に独占させないため」に特許を確保し…』(2014.5.1日本経済新聞)と書かれています。
私は、この考え方に100%賛成です。また、この山中先生の考え方からも『独占権の活用目的は、独占に限られない』という命題が見えてきます。
なお、上記山中先生の考えを私なりに解説すると、以下のとおりです。仮に、山中先生が特許出願をしないままにiPS細胞の作製技術を公表した場合、iPS細胞は非常に大きな価値を持つために、多くの企業がその実用化のための“血みどろの開発競争”を行い、結果として関連する特許が乱立します。そしてその中から資金力のある企業がどうにかiPS細胞を実用化するかも知れませんが、それは非常に高価になる等、理想的なiPS細胞の普及は望めません。一方、(iPS細胞ほどではない)一般的な価値を有する発明については、その価値のために企業は“血みどろの開発競争”をできないため(∵原価割れになる)、特許無しには企業から実用化の意志を引き出すことができません。
つまり、産業界で大学発明が良好に実用化されるためには、(発明の価値の大小に関わらず)まず特許が必要であり、且つ、特許の独占性を利用して合理的な実用化の努力を産業界から引き出す等のリーダーシップを大学等が発揮する必要があることを、山中先生は書かれているものと理解しています。
企業内で発明がなされて実用化される過程は「単一の意思(利益)」によって支配されるために、ある意味で合理的な実用化等が期待されます。一方、大学発明を企業(群)が実用化するという「社会的分業」においては、各立場の利害が交錯するため、全体としての合理性が必ずしも担保されません。これに対して、山中先生のご指摘は、この「社会的分業」において合理性を実現させる役割は大学等が負担すべきであり、その手段として特許の独占性の活用が有効であるとの意味であると思います。
特許権等には、「独占権」と共に、「任意の内容 (!) で、他人にライセンスできる権能」(実施許諾権=独占性の否定)が含まれています。そして、この二つの権能を上手く組み合わせることで、特許権等は全体として様々に活用可能であり、単純な「独占」だけでは得られない多様な価値に繋げることが可能です。そして、「ライセンス」の内容を工夫することで目的に応じて特許を活用する知恵は、特許戦略(知財戦略)と呼ばれるものの1つです。
これに対して、一方的に『「そだねー」を菓子メーカーが独占するのはおかしい』とか、『発明を、大学が特許で独占するのはおかしい』と非難することは、実は、特許権は「特許発明の実施を独占する権限」であるという原始時代の定義に縛られていて、創造性に欠けるな~と邪(よこしま)な考えに至るのであります。
先日、判決の言い渡しがあって、当所が代理した審決取消訴訟で勝訴しました。開所したての当所にとっては初戦の初勝利で素直にうれしい出来事なので、審決取消訴訟のご紹介と共にご報告させて頂きます。
半分(以上?)が自慢話と目をつむってご一読頂ければと思います。
「審決取消訴訟」とは、特許庁の審判合議体が行った「審決」の取消を求めて裁判所に提訴して行う訴訟のことであり、今回は「拒絶査定不服審判」についての審決の取消を求めたものです。この「拒絶査定不服審判」は、(その名前のとおり)審査官がした拒絶査定の取消を求めて行う審判ですから、その審決取消訴訟は特許出願の第3ラウンド的な場面です(正確には、第3ラウンドでなく、第2ラウンドの“番外編”に相当します。詳しくは以下で…)。
特許庁の統計(*1)によれば、拒絶査定不服審判(査定系)についての審決取消訴訟は年間で100件前後の提訴があり、原告勝訴(=審決の取消)の割合は2割前後です。この状況は、まさに「十中、八、九は特許庁の勝ち」という状況であり、特許庁の審理結果を裁判所が高い割合で支持している点は、特許庁で審査業務をさせて頂いていた身としては誇らしくも感じます。
一方、出願人側の代理人として事案を担当する場合にはハードルが高いということであり、今回、無事に審決取消を勝ち得たことで安堵しています。
審決取消訴訟の特徴について、主観も交えて以下にいくつかご紹介します。
審決取消訴訟は、ちょっと不思議な立ち位置にある手続きです。例えば、「拒絶査定不服審判」では、審理対象である「拒絶査定」が妥当で無いと判断されれば “特許する” 旨の審決が出されます。一方、今回は“拒絶審決を取り消す”旨の判決を受けた訳ですが、これは“特許する”という意味ではありません。あくまで、判決は “拒絶審決を取り消す” のであって、これによって本出願は審決がなされる以前に戻って、再び「審判」で審理を受けることになります。
つまり、審決取消訴訟は “特許すべきか否か” を争う場所ではなく、 “審決が妥当であったか否か” を争う場所であり、最終的に “特許する” のは第2ラウンドである「審判」です。そして、もし審判が本出願について別の拒絶理由を見出した場合には、改めて “拒絶審決” がなされる可能性があります(そのようにならないことを祈るばかりです)。
このような事情があるため、上記で「第2ラウンドの“番外編”」と記載しました。このような取扱がされる理由は、「特許査定」という行政処分が特許庁の専権事項であり、裁判所であってもこれを行うことができないためです。
また、審決取消訴訟の他の特徴として、判断の主体が裁判官であって、大半の裁判官は文系のバックグラウンドをお持ちの方であるということです。特許弁理士の日常業務は明細書や意見書等の書面の作成等ですが、これらの書面はいずれも所定の技術的な知識を持つ技術者を前提として記載します。これに対して、裁判所に提出する各種の書面は、読者が技術的知識を有しないものとして記載する必要があり、弁理士にとってはある意味で不慣れな作業でもあります。
特許出願の審査や特許の有効・無効の判断を専権事項とする特許庁が特に設けられている趣旨は、特許が技術的な事項に関わるものであるために、専門官庁(特許庁)で特許出願の審査等を行うことが合理的であるためと理解しています。一方、その特許庁(審判)が誤った判断をしないとも限らないため、その妥当性を判断する仕組みが必要であって、それが「審決取消訴訟」であると考えています。
つまり、裁判所に特許に関わる技術的な事項についての判断を求めることが合理的でないことは元より承知の上で、他に方法がないために裁判所で「審決取消訴訟」が行われるものと理解しています。そして、その合理的でない部分は関係者が分担して負担する他なく、通常とは異なる書きぶりの書面の準備が必要とされる等もその一部であると思います。
最後に、審決取消訴訟において痛感したことは、「訴えの機会」の少なさです。ご存じのとおり日本の裁判は三審制であり、通常であれば3回の訴えの機会があります。一方、特許出願等に関しては、特許庁での審判手続が裁判に類似した準司法的手続によって行われるために一審級が省略され、裁判は知的財産高等裁判所(東京高等裁判所の特別の支部)から始まると特許法が規定するため、裁判所での訴えの機会は2回になります。
特許法が想定している流れは、審査官がした「拒絶査定」について出願人に不服がある場合には、①まず特許庁内の“上級審”としての審判合議体で「拒絶査定」の妥当性を審理(拒絶査定不服審判)し、②その審決においても不服が解消しない場合には知財高裁(及び、最高裁)で審決取消訴訟として審理するというものです。つまり、拒絶査定を受けた出願人は最初に特許庁での審判を受けるために、裁判所での審理を最大で2回として、合計3回(三審制)にするという構造です。
一方、今回の拒絶審決は、拒絶査定を妥当とする拒絶審決ではなく(つまり審査結果の妥当性は否定された)、審判が新しく見出した拒絶理由による拒絶審決でした(注:特許法上は適法です)。このため、今回の知財高裁での審理が、拒絶審決で示された拒絶理由の妥当性を争う初戦でした。一方、特許庁の統計(*1)によれば、過去10年間で査定系での知財高裁の判決が最高裁で覆された案件が存在せず、事実上は知財高裁での判断が最終判断となるために、今回の事案ではこの初戦が最終戦ということになりました。
このような事情で、今回の事案では、知財高裁における審理が拒絶の原因となった拒絶理由の妥当性を第三者の判断に委ねる事実上の唯一の機会であり、出願人にとっては“後(あと)がない”非常に厳しい場面であることを痛感しながら手続きを行いました。(制度的な手当があっても良いのにと、少し思いました。)
弁理士としては、依頼者の皆様に良い権利を取得して頂くために、日常から関連する判決を勉強することは勿論ですが、特に興味があって、当所の所長(と、影の所長)は特許侵害訴訟に関する研究をライフワークにしています(検索して頂ければ、簡単な研究報告を見て頂けると思います)。今回、実際に自ら訴訟に関わりましたが、いろいろと先人の行った主張や立証を見知っていたことが非常に役に立ちました。
審決取消訴訟において、特許庁の最終見解である「審決」の妥当性を裁判所で争うことは、実は、特許庁の審判官との間で、どちらの主張が正しい特許法の運用であるかを争うということです。この作業は、依頼者の皆様(特許出願人や特許権者等)の利益を守る役割である弁理士としては負けられるものではありませんし、その相手が特許についてのプロ中のプロであるなら不足はありません(たった一回の勝訴で、十分にいい気になっています!)。
今後も、通常の特許出願に加えて、審決取消訴訟等の場面でも依頼者の皆様の信頼にお答えできるよう、精進したいと思います。 (*1:特許行政年次報告書2018年版)